裏日本観察学会総本部

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裏日本観察学会突撃巡礼隊in祐徳稲荷

久しぶりの突撃巡礼隊です。
 さて先日、所用のために佐賀を訪れたのですが、時間があったの知人とその奥さんの案内で祐徳稲荷神社へお参りしてきました。
 佐賀平野ののどかな光景を眺めながらの道中を進み、武雄市の市街地を抜けると朱塗りの欄干を模したガードレールが、ところどころに見えてきます。そうすると目的地も間近となります。朱の大鳥居が見えてくると、そこは日本五大稲荷(伏見・豊川・笠間・最上)のひとつ。祐徳稲荷神社です。
 車を降りて仲見世のある参道を歩きます。神具や縁起物。饅頭や駄菓子、それに名物のお茶。民芸品やたわいもないおもちゃなどが並んでいますが、こういうところで見ると無性に欲しくなるのは不思議なものです。ふと道の脇を見ると、しゃもじを持った大黒さまのような石像が祀られていました。この九州地方で見られる「田の神さま」の像です。佐賀は穀倉地帯ですから、このような農耕神信仰が盛んなのでしょう。またこれからお参りする稲荷も農耕神です。また鳥居も特徴的です。二本の支柱がずんぐりと太い形で、肥前鳥居と呼ばれる形です。福岡市の箱崎八幡宮にある箱崎鳥居もこのような形ですが、なんとなく無骨で、力強い九州的な雰囲気を醸し出します。
 朱塗りの楼門には極彩色の漆絵が施され、一見すると桃山風ですが支柱や梁などはすべて鉄筋コンクリート製でした。しかしほどよく朱が馴染んでくれているのか、あまりけばけばしい感じはしませんでした。正面に神楽殿、そして山肌に沿って懸崖造の本殿が建っています。すると奥さんが、「ここって“縁切り”って噂されていて、カップルではお参りしないみたいだよ」と聞いたから、「“縁切り”っていうのは、悪い縁を切る。病気の縁を切る。貧乏神との縁を切るという意味だよ」と返答したら、「あぁ、その考えっていいよね」と笑っていた。しかし、そんな根も葉もない噂はどこから広まるのでしょう。都合の悪いことばかり神仏に押しつける心根では、良き縁も結ぶことは叶わないのではないでしょうか。
 階段を上って本殿を参拝。その後、祐徳稲荷の起源ともいえる岩壁(せきへき)社に足を運んだ。そもそも祐徳稲荷神社とは、鹿島藩主鍋島直朝公の夫人萬子媛が早世した二人の子の菩提を弔うために、祐徳院を建立。そして伏見より稲荷を勧請したことを起源とします。萬子媛は80歳でこの地で断食入定され、祐徳院殿瑞顔実麟大姉の法名を授けられました。明治の神仏分離によって入定の地は石壁社となったそうです。この周辺には信者の奉納した千本鳥居や祠が並び、稲荷社独特の趣があります。ある祠には山のようにカマボコや竹輪が供えられ、その横では野良猫が“神様のお下がり”かとばかりに食べていました。

 さて、稲荷といえば狐。狐といえば稲荷。というようにおなじみの関係ですが、これはどうしてでしょうか。

 そもそも、稲荷神の文献での初見は、『山城風土記』「伊奈利社」にあります。それによれば和銅四年(711)に秦氏の遠祖である伊呂具が、餅を的にところその餅が白鳥となり現在の稲荷山に舞い降りたといいます。そして「伊禰奈利生ヒキ、遂ニ社ノ名ト為ス」。つまり稲が成っていたので“イナリ”と名付け、己が行為を恥じた伊呂具が氏神を祀ったのが、稲荷社の始まりだとしています。このように稲荷は食物神・農耕神です。
 ただ、この段階では秦の氏神ですが、その後に稲荷が朝廷から祭祀を受ける神へと昇格する出来事が起きます。
 平安の始めに東寺造営の際に、その杣山(そまやま:材木調達の山)として稲荷山が選ばれました。しかし、時の淳和天皇が病気となったため託宣を行ったところ、神の祟りとされました。そこで天長四年(827)正月に詔が発せられました。

  礼代(いやしろ)に従五位下(ひろいいつつのくらいしもつしな)
  の冠(こうぶり)授け奉り治め奉る

従五位下の位階が授けられた稲荷神は、これを契機に信仰が拡大します。また、真言宗との結びつきも生まれました。
 鎌倉期に記された弘法大師の一代記には、「稲荷契約」と呼ばれる伝承があります。概要は次の通りです。

 弘仁十四年(823)、弘法大師が東寺門前で稲束を担う翁と対面した。
 翁は密教守護を誓われ、大師は門前で供物を捧げた後に、東山に社を
 建立してお祀した。それが現在の伏見稲荷であり、稲荷明神は東寺鎮
 守・密教守護の神である。

このような伝承が生まれる背景も、先のことと関連があるのでしょう。そして狐とはもともとは「ケツネ」です。ケは食物を意味する古語。ツは接続詞。ネは根と同じで根本・大元。記紀にも食の神は「大気津比女(おおけつひめ)」・「稲倉魂(うかのみたま)」・「豊受大神(とようけのおおかみ)」・「保食神(うけもちのかみ)」とあります(ケとカは同音です)。つまりケツネは「食の根源」を意味する言葉。それが動物の狐と同一視され、稲荷の眷属となりました。また狐自身が山から里へと現れるところから、農耕神と同一視されやすい霊獣としての一面も有しています。

 この霊獣としての狐ですが、『古今著聞集』巻六に「知足院忠実大権房をして咤祇尼の法を行はしむる事并びに福天神の事」という興味深い話があります。これには藤原忠実(関白頼通の曾孫)が望みがあるために「大権房といふ効験の僧の有けるに、だきにの法をおこなはせ」たところ、夢に美女が現れ目を覚ますと狐の尾をにぎっていたとあります。その翌日、忠実に摂政が宣下されました。
 このダキニ(荼吉尼・陀祇尼)と呼ばれる神ですが、インドのDakini(ダーキニー)を音写したものです。『大日経』や『大日経疏』にみられ、もともとは生きた人間の心臓を食す鬼女でしたが、大黒天に姿を変えた大日如来が降伏し、以後は死体の心臓を食すようになったと説かれます。荼吉尼を祀ると、不思議な能力が身に付くといわれ、恐れ敬われる神でした。胎蔵曼荼羅では人間の手足を食らう鬼女の姿で描かれます。特にチベットなどで信仰される後期密教では重視されますが、日本へ伝わった中期密教ではそれほど重視はされず、まとまった儀記・次第も存在しません。
 しかし、なぜか日本では平安中期ごろからダキニへの信仰が散見されますが、もとの出自が出自だけに、外法として忌まれた面もあります。しかし中世では天皇の即位の際に、このダキニの真言を唱えるという、「即位灌頂」という儀礼が出現しました。
 なぜ、ダキニと狐が結びついたのかは正直、分かりません。人によってはダキニの狐は、本当はは夜干(やかん)であり、これはジャッカルであるが、日本では夜干が狐と同一視されたから、ダキニは狐を眷属とする。またジャッカルは死体を食うからダキニと同一視されたなどという説明をしている書物もありますが、かなりの眉唾物です。
 まず夜干がジャッカルであるという説は、南方熊楠が『十二支考』で述べてはいます。そして日本での夜干と狐の混同も指摘しています。しかし、それだけであってダキニの眷属が夜干であるなどとは述べていません。そもそも、狐(夜干)に乗るダキニは中世の日本で独自に生み出された尊像であって、インド本来の姿でもなく、また曼荼羅に描かれるものでもありません。先のような「ダキニ・ジャッカル説」は日本生まれのダキニ像をインド生まれだと誤解した、いうなれば密教の基礎も知らない人間が述べた珍説に過ぎません。
 閑話休題。さて、少なくとも平安中期にはダキニと霊獣としての狐を結ぶ信仰が生まれていたのでしょう。そしてこの狐を媒介として、ダキニと稲荷が同一視されるようになります。興味深いのは中世期の天台僧光宗が記した『渓嵐拾葉集』(『大正新脩大蔵経』第七十六巻所収)に、天照大神が岩戸にこもった姿が狐であると記されます。これは内宮に対して外宮が下位であったのが、中世に神宮を密教の曼荼羅に配当し、内宮を胎蔵・外宮を金剛界とする説が生まれました。この考えは内宮・外宮を同等とみなすとして、外宮を祭祀する渡会氏に受け入れられ、内宮の天照大神と外宮の豊受大神を不二とする説へと発展します。そのため、天皇の祖神である天照大神は、穀物神であり、それは霊獣狐と同一視されたのでしょう。そのところからも、即位においてダキニ法を修するという説が生まれたと思います。
 愛知の豊川稲荷や岡山の最上稲荷のように、ダキニを稲荷として祀る寺院は多々ありますが、霊獣狐を介しての稲荷との結びつきはまだまだ謎な部分が多く残っていて、興味の尽きないところです。
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